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喪失と諦め
長年続けたホスピスでの遺族外来で、近しい人を亡くした方々から幾度となく話してもらっ たこと、自分の経験からも学んだことに、次のようなことがあります。以下、喪失の状況などにもよりますし、個人差があるということを前置きしておきます。 近親者を亡くした人は、これまで繰り返されてきた数えきれないほどの「ちいさなあたりま え」の全てがいっぺんに失われたということを経験し続けます。早朝、隣に寝ている人の止 まないいびきにウンザリしつつ、いつものようにそっと先に起床する、お皿やお茶碗やお箸 を二人分、いつもの決まった手つきで取り出す、「そうじゃない?」と問えば、「そうだね ~」が返ってくる、など・・。自分自身にとっての「いつもの」になっていたそれらの全て の習慣、いなくなった人とともに消え失せたそれらの記憶の一つ一つが、時間も場所も選ば ず容赦なく、こころの痛みとなって押し寄せてくる。止まった時のカプセルの中でその一つ 一つと向き合い、ひと泣きするそのたびに、「もう戻ってこないのだ」とため息と共に小さ な何かがすっと腑に落ち、涙をふいて、立ち上がる。そういった体験を日々、幾度となく重 ねていったある時、身を切るばかりであった喪失の痛みがほんの少しだけ和らいでいること に気づく。そこまで来ると、「いないこと」が今そこにある現実なのだ、仕方がないことな のだと、少しずつ受け入れることができるようになると共に、喪失の事実そのものを否定し たい気持ちを少しずつ断念することができるようになります。この「失われた当たり前」の 一つ一つにこめられた愛しさの情念を手放していくというのは、時間のかかるとても大変な こころの作業で、その人だけにしかその苦しみはわからない、個人的な経験です。 これは「諦め」のプロセスです。自分の願うことがかなわない時、それへの執着の思いを断 念するという意味ですが、そもそも「あきらめる」という言葉は「あきらかにする」に通じ、「自分の思い通りにならない」という事実そのものを真実と見極める、ということから 派生しているそうです。つまり、「思い通りにならない = 自分には変えられないこと だ」ということを事実であると受け入れ、逆らわないこと。何とかコントロールすべくあがいたり、何かや誰かや自分を責めたりすることで感情的に関わるのではなく、そういった抵抗をやめ、「そういうことなのだ」と、変化に身をゆだねようと心に決めること。日本語で は「しょうがない・仕方ない」とも言いますし、ドイツ語でも 「Da kann man nichts machen.」とか「Das ist halt so.」といった言い方をします。人生というのは、とかく自 分の思い通りにならないことが多いものですが、そういった思い通りにならない事柄のうち、確実なものの一つが、作家の養老孟司さんも言うように「人間の死亡率は100%である」ということです。老いを受け止める
生まれた瞬間から人間は着実に死に向かって生き続けます。普段わたしたちが「老いる」という場合、特に人生後半のある時期から死ぬまでの途中経過での心身の変化(衰え)の事を 指します。老いと死は誰にでも平等にやってきますし、また、それがいつどのように来るか は誰にもわからないというところも、平等です。トランプやカードゲームをしていて、自分 の手持ちのカードが良くない時があります。人生も同じで、実に不平等で理不尽なものです。ただ、どのようなカードが配られたとしても、自分の所に回ってきたカードでプレーす るのは、ほかならぬ自分です。「なんで私の所ばっかりにこんなカスのカードが来るの、腹 が立つ!」「相手のカードの方がすごくよさそう、うらやましい」などと、カードが良くな いということそのものに感情的に反応しても、その事実には変わりはなく、「しょうがない、このカードでなんとかしよう」と腹をくくって引き受け(あきらめ)、運に身をゆだ ね、手持ちのカードで勝負するしかないわけです。 今日のわたしは、「自分の人生最後の日まで残された時間のうち、一番若い日」を生きてい ます。今ある状況のなかで可能かつ最善と思われるチョイスをするため、いま、自分の手の 中にあるカードをよく見極めること、そして自分の番になって出したカードがもたらした結果については、その時のベストな選択だったのだと善しとし、次の手につなげて行く事が、 いつ終わるかわからない毎日を後悔しないように十全に生きるということなのです。その際、何かをするということと、何かをしないでおくということは、その時ベストだと思って成した自らの選択であるという意味では、まったく同価値です。 わたしたちは、時の流れや偶然などの重なりの中で沢山の分かれ道に行き当たり、そのたび にいろいろな選択をし、自分の歩みをつないできました。その延長上に、今の自分がいます。皆、他人とは比べようのない自分だけのオリジナルな軌跡をたどってきて、それは最後 まで続きます。今までの自分の軌跡に対し「いろいろあったけれど、よくここまで来たよ ね、まだ先に行けそうだね」と優しい尊びの気持ちで自分を思いやる、ということも「自分 を受け入れる」ということの一面でしょう。また、経年変化した身体はそのすべてを受け止 めてくれた大事なうつわです。最後まで納得できる形で軌跡をつなげていくためにも、たと え病や障がいを得たとしても、その時その状況でのベストのコンディションでいられるよ う、心身をいたわりメンテナンスすること、自愛することをこころがけたいものです。 近所に住む Aさん、数年前にご主人を亡くされてからも気丈に暮らしていたものの、最近に なって転倒と骨折を繰り返し、歩くことも困難になりました。そのAさんがある日、窓際の 植物の手入れをしながら笑いながら教えてくれました:「わたし、親も夫も看取ったでしょ、自分も 90 近くなって、年寄りとしてたいがいのことは経験したから、ハイ準備完了! あとはお迎えが来るのを待ってればいいだけと思ってたのに、「え~~!老いるってこうい うことなの?」っていまだにびっくりことがあるのよ!まだ終わってなかったってことなの よ、どんなことがまだ先にあるんだか、ここまで来ちゃうともうなんだか、いつ最後になっ てもいい毎日が愛しくなってきちゃったわ・・・。」。Aさん、おみそれいたしました! 3回に渡ってお届けしたエッセーはこれにて終了です。最後までお付き合いくださいまし て、ありがとうございました。どうぞ皆様、健康に守られ、よい年末年始をお過ごしくださ い。© 2021 Nao Honekamp-Yamamoto 本文の一部又は全部を、著作権者の許可なしに複製、転載することを禁止します。